映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の予習復習には「マッドマックス2」がオススメ

やわなべです。

映画「マッドマックス 怒りのデス・ロード」を見てきました。

ネットでも好評の声が多く日曜の映画館はほぼ満員でした。ネタバレとかいう次元でどうこういう映画じゃないので、内容を2行でまとめると、

・【前半】タンクローリーとロックなカーチェイス(往路)
・【後半】タンクローリーとロックなカーチェイス(復路)

以上です。

チェイスの相手は前後半同じです。箱根駅伝みたいな映画です。よく登場人物の関係が混乱することの多い私でもこれならついていけますね。てか、そもそもセリフが少ないです。シリーズ通した主人公であるマックスさんが主役で、スキンヘッドで片手が義手の女性兵士フュリオサさんが準主役なんですが、このふたりの会話もカーチェイスの円滑な遂行に必要な実務的な連絡事項をのぞけば、

・【前半】女「名前は?」
・【後半】男「マックスだ」

くらいです。

そんなスカスカといっていいプロットで2時間、観客を惹きつけるのは、多くの方が指摘されるとおり、文明崩壊後の世界観とその厨二的演出の徹底ぶりにほかなりません。それがどのくらい圧倒的かというと、今、こうして文明の象徴である文字を使って感想をつむいでいる自分の行為自体が野暮そのものだと感じてくるくらいです。「はぁ? てめぇ、ちょっと字が書けると思ってエラそうにすんなや」という声がツインネックのギターで奏でられるロックとともにあちらの世界から聞こえてきそうです。

おそらくこの映画に最もふさわしい賛辞は「すごく面白かったです」という小学生丸出しな感想なのでしょう。私が制作スタッフの一員なら間違いなくそう言ってもらいたいですし、なぜ面白いと思ったか、その理由とか聞きたくないです。

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ついでにマッドマックス全作見てみた

シリーズ4作目である「マッドマックス 怒りのデス・ロード」なんですが、実は私、それまで1作目から3作目まで全く見たことがありませんでした。「前作を知らなくても楽しめる」という評価が多かったんですが、少しは予習しようと、前日にhuluでシリーズ1作目の「マッドマックス」を鑑賞しました。

最近のhuluは金曜ロードショーみたいに、話題作の劇場公開前に、その映画や監督の前作を期間限定で配信することが多く「マッドマックス」も1作目から3作目まで鑑賞できるんですよね(2015.6.29現在)。 私と同じように「デス・ロード」を見る前、あるいは見たあとに予習復習としてシリーズ前作を見ようと思われる方も多いと思いますので、少しシリーズ全体の感想をば。

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「マッドマックス」(1979)

設定はオーストラリアの田舎街で、警察や司法機関もあって文明はまだ崩壊してません。メル・ギブソン演じる警官マックスによる暴走族とのカーチェイスによる復讐劇が山場なんですが、これが「デス・ロード」のシリーズ原作だとは、そうと言われなければ絶対わからないと思います。

一応、この作品ではシリーズ通じたマックス自身の唯一の人間ドラマ要素である「同僚や妻子の死」が描かれるのですが、その描写すら、ものすごくそっけないです

セリフも少なく、低予算による編集の雑さからか場面展開も唐突で、全編通じて説明不足による置いてけぼり感と陰鬱なストーリー展開による後味の悪さがつきまとう映画です。 まあ70年代アメリカ映画っぽい陰鬱さといえばそうなのかもしれませんが、少なくとも「デス・ロード」を見て思った疑問が本作をみて氷解するということは全くありません。正直、「よくこれで続編の話が出たもんだな」と思いました。シリーズ通じて引き継がれているのは「説明無しのそっけなさ」だけです。

「マッドマックス2」(1981)

2作目にして早くも世界大戦後という大いなる設定上の飛躍をとげ、武力でエネルギー資源である石油を奪い合うという素敵な世界観が確立されています。この設定の飛躍ぶりには、さぞ多くの説明がなされるのであろうとおもいきや、冒頭数分間のナレーションで全て片付けてしまいます。

そんなんええからさっさとイカれた奴らとのカーチェイス見せろや」という層が続編を支持したんでしょうし、制作側もその期待に最大限に応えた作品となっています。映画の前半で伏線をばらまいておいて、それを後半に見事に回収し、見る側に「なるほど、そうだったのか。これは面白い映画だ!」と感じさせるような緻密な構造はこのシリーズには似つかわしくありません。つまり、

1. マックスは理由はどうあれ武装改造した車の群れとカーチェイスに巻き込まれる
2. マックスはカーチェイスには勝利するが、本人がそれによって安定的地位を得ることはない

以上2点さえおさえておけば「マッドマックス」のストーリー理解としてはほぼ100点だということがこの作品でわかりました。

「マッドマックス/サンダードーム」(1985)

2作目同様、文明崩壊後の砂漠の中の人口都市が舞台ですが、前作でエネルギー資源としての石油の奪い合いをしてたのが、本作の舞台では代替エネルギーであるメタンガスをエネルギー源とした世界として描かれています

「だからなんだ」と思われるかもしれませんが、この設定変更のために「希少なエネルギー源を持って逃げる人達 VS それを阻止すべく追いかけるイカれた人達」というカーチェイスに至る最低限の動機が成り立たないという脚本上の大きな足かせとなっているのです。

結果、シリーズのアイデンティティを支えるカーチェイスによる疾走感は、後半、逃走のための追いかけっことして短時間出てくるだけ、という、少々インパクトに欠ける仕上がりとなってしまっています。しかも逃げる方は機関車ですよ。これでは「大が小に幅寄せして押しつぶそうとする」だの「小が大のタイヤに槍をぶっ刺してスピード低下を目論む」といったお約束の演出ができないではないですか。

その代わりとして、サブタイトルにある「サンダードーム(見た目は鳥カゴ)」の中でのマックスと巨大男とのデス・マッチが前半のメインアクションとして描かれるのですが、これが結構あっけなく終わる上に後半のアクションまでの中だるみ感が強く、消化不良感を禁じえませんでした。

本作で女帝役に起用された歌手のティナ・ターナーは、4作通して見ても一番まともに演技してるのではないか、と思うくらいなんですが、このシリーズに関しては役者の演技に目が行くようじゃダメなんですよねぇ。

まとめ:予習復習で見るなら「マッドマックス2」を

というわけで 「1 → 4 → 2 → 3」という順でシリーズ全作を見ました。

今回、制作中止を乗り越えて30年越しで4作目が実現したわけですが、その執念の背景には、3作目の消化不良への後悔が強かったのかなぁ、と感じました。3作目が終わった時、製作陣は「マッドマックス」シリーズの本懐とは、いかにカーチェイスを派手に、お馬鹿に演出し、その疾走感だけでいかに長く映画の尺を稼げるか、という点にあるのだ、と再認識したのかもしれません。

なので「デス・ロード」では2作目同様、エネルギー源としてのガソリン=石油が重要なアイテムだという設定に戻っていますし、カーチェイスを先導する主体も2作目同様、巨大なタンクローリーとなっています。

ついでにいうと「デス・ロード」の前半のカーチェイスのシーン、マックスはほとんどの時間、追いかける側の車の先端にはりつけになった状態で過ごすという、これまでにない受動的なチェイス参加を強いられるのですが、2作目に同じように囚われた人質を先端に縛り付けた車でカーチェイスするシーンがあって、この演出はそのセルフパロディなんですよね。タンクローリーの復活といい「2作目に回帰すべし」という明確なメッセージを感じました。

あと「デス・ロード」には シャーリーズ・セロン演じる女隊長以外にも美しい女性が何人も出てくるのですが、マックスがそれら女性のだれかと恋に落ちることも、それを匂わせるような描写も全くありません。普通の映画だとこれは明らかに不自然で、逆にそれを観客が納得できるよう説明するのに多くを要しそうなものですが、もちろん「マッドマックス」ではそんな説明は皆無です。

繰り返しになりますが、マックスとは「時代、場所、理由を問わず、行き着いた場所で武装改造した車の群れとカーチェイスするハメになる存在」であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。 「置かれた場所で咲きなさい」という教訓を体をはって示しているのです。

もはやその役を誰が演じるかすら重要ではありません。4作目で初めてメル・ギブソン以外の人が演じたマックス役ですが、私、俳優さんの名前や、どんなキャリアの人なのか、見終わったあとも全く気になりませんでしたよ。

観客はすべからく「ナチュラルボーン・カーチェイサー」であるマックスの存在を定点として、文明崩壊後の世界のひとつの表現を巨大絵画を鑑賞するがごとく俯瞰すればよいのです。この世界観を魅力的に見せる上で、主人公のロマンスなぞは冗長で野暮ったい演出でしかないのでしょう。そんなヒマがあったら1分でも早く車を出せと。アクセル踏んでスピードをもう10キロ上げろと。

そしてこんなシリーズを手がけた監督のジョージ・ミラー氏は今年で御年70ですよ。そのお歳でこの作品を世に送り出した気力こそが何よりロックだと思いましたよ。