映画「インサイド・ヘッド」を見てきたよ

やわなべです。

連休のハイライトは散歩中に自宅から一番近いドン・キホーテを発見したことですが、そんなことはともかく、ピクサー20周年記念の映画「インサイドヘッド」を見てきました。夏休みの子供向け映画ですが、先日見た「マッドマックス」よりもいろいろ考えさせられる映画だなぁ、と個人的には思いましたよ。

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なぜ、”カナシミ”は必要なの・・・?

この映画、11歳のライリーちゃんという女の子の物語と、彼女の頭の中を擬人化したストーリーとが同時進行で進んでいきます。

などと書くと、えらくややこしい設定のようですが、上の予告動画を見るとすぐ理解できるように、彼女の主な感情(喜び、悲しみ、怒り、嫌悪、恐怖)がそれぞれヨロコビ、カナシミ、イカリ、ムカムカ、ビビリというキャラとして登場し、人間の脳内を表現した独創的で広大な世界で冒険を繰り広げます。感情以外にも記憶や夢、思考、トラウマ、忘却などの概念も「なるほど、こう来たか」という形でビジュアライズされてて、最近ドラマ的演出の多いNスペの「脳、その驚異の小宇宙」特集みたいでもありました。

予告にあるように、普段は5つの感情キャラが、宇宙船の司令室のようなところからライリーちゃんの感情を操作してるんですが、アクシデントでヨロコビとカナシミがその司令室から脳内世界の僻地(長期記憶保存領域)に飛ばされてしまい、そこからはるか遠くの司令室まで戻ろうとする冒険と、ライリーちゃんのリアル生活での苦悩とが両建てで進行していきます。

5つの感情キャラのうち、最初はヨロコビがオペレーションの指揮をとってます。万事ポジティブなヨロコビにすれば、ときおりカナシミが操作することによってライリーちゃんをわざわざ泣かせたりする意味がわからんわけです。ネタバレなので詳細は書きませんが、サブタイトルになってる「なぜ、”カナシミ”は必要なの・・・?」というのは、リアルと脳内、2つの世界で同時進行で繰り広げられる冒険の果てにたどり着く重要なテーマとなっているんですね。

感情と行動とのギャップこそ現代人の悩みでは?

映画自体は、2つのストーリーが同時進行で進みながらも「ドラマ」「冒険」「ファンタジー」といった要素がバランスよく配合されていて、大人も子供も十分楽しめるものだと感じました。

ただ、これねぇ、たぶん 見終わった大人は、自分自身のケースと照らし合わせることで、しばらく色々引きずって考えるんじゃないでしょうかね。 マッドマックスでは「自分のケースにあてはめるとどうだろう」なんて考え、つゆほども起こりませんでしたけどね。

以下は、私がモヤモヤ考えてたことです。

われわれが普通、喜びや悲しみといった感情を感じるのって、何か喜ぶべき事象に接したから、というよりは「その事象を思考によって解釈した結果」である方が多いと思います。

映画の中でもライリーちゃんが親の都合で引っ越した先の環境にあまりなじめないのを、ヨロコビがポジティブにとらえさせようとするんです。家庭内がピリピリしてる中、空気を読んで健気に明るく振る舞おうとしたりする。擬人化されてますけどこのプロセスって「思考による現実のポジティブな解釈」ですよね。でも、それと自分の本当の感情との間には少しギャップがあってそれがトラブルとなっていきます。

ネタバレ風味になってきましたが「なぜ、”カナシミ”は必要なの?」というテーマを大人向けに言い換えると、「なぜ感情に反して振る舞おうとするとうまくいかないの?」ってことじゃないかと。

上の例はヨロコビによる勇み足的な状況ですが、逆に、憂うべきでない状況を過度にネガティブにとらえてしまう「うつ的状況」なんかは、カナシミの不適切な発動として同様によろしくない状態なわけですね。

大人にとっての裏テーマ「ファインディング ジョイ」

ただ、無理せず己の感情のままに振る舞うと、今度は現実社会において軋轢や不和、諍いの元になるわけですよ。その状況を回避しようと脳内の「ビビリ」が先回りして、思ったままの感情を発露させないようブレーキかけて自制したりしているわけです。

さて、我々がそのような自制的な行動を取るとき、本来の感情と結果としての行動との間の折り合いがちゃんととれてるんでしょうか。

映画の中では、時折ライリーちゃん以外の人物の脳内情景も描かれるのですが、下の動画の彼女の両親の会話のシーンで描かれる心理描写を見ると、大人のそれや駆け引きは、子供のそれよりもっと複雑なように表現されています。

このシーン、映画の中で大人が笑うシーンのひとつですが、漱石の「明暗」に描かれた何気ない会話の裏で繰り広げられるスリリングな心理戦のような恐ろしさをも感じます。さりげなく描かれる「女性は誰もが脳内に妄想用の男性キャラを飼っている」なんて設定も恐ろしいですよね。

そして、この両親のやりとりを見てて気づくのは、ライリーのそれと比べてどの大人の脳内でもヨロコビの存在感が薄いこと。

試みに自分自身の脳内を想像で擬人化しようとしても、やっぱりその世界でもヨロコビの影は薄かったりする。そこでハッと気づくわけです。

「この物語に出てくる『ヨロコビの喪失』って、自分の脳内でリアルで起こってることなんじゃないのか?」と。

この映画の途中、ある概念を擬人化したキャラの死が描かれます。それは子供の成長のひとつの側面を表現しているのですが、それと同じく「ヨロコビの喪失」を大人になることの代償として受け入れないといけないものだとしたら、なんともやるせない気分になってきます。

映画は、思春期を迎えてだんだん複雑化するライリーの脳内世界の描写とともに「いろいろあったけど、まだライリーは12歳と若いから…」みたいなハッピーエンディングなナレーションで終わるんですが、ライリー脳内世界におけるヨロコビの今後の失脚を匂わせる暗示のように感じられてしょうがないんですが考えすぎでしょうか、考えすぎですね。

というわけでこの「インサイド・ヘッド」、夏休み、お子さん連れで見に行かれる親御さんも多いでしょうが、大人であるあなたへのメッセージは、カナシミの存在意義、とかじゃないですよ。「あなたのヨロコビ、息してますか?」ですよ。ファインディング、ジョイですよ。