「日本占領史 1945-1952」

やわなべです。

2015年9月2日は、日本が降伏文書に調印した日からちょうど70年です。アメリカで記念式典が行われたりしてるようですね。

(参考)米で対日戦争勝利70年の記念式典 NHKニュース

あと、直接戦ってない方々も、盛大な戦勝パレードをやってたそうですが、それについては、

(参考)台湾総統「抗日戦争は国民党が主導」 NHKニュース

ということでひとつ。

日本においては、8月6日、9日の原爆記念日と、昭和天皇が降伏の意思を国民に伝えた8月15日が、毎年戦争を回顧する日となってますが、日本の敗戦が確定した日は、諸外国が記念式典を行う、9月2日です。

その日からサンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日までの7年間、日本は連合国の占領下にあり、主権のない状態が続きました。「日本占領史 1945-1952 / 福永文夫著」はその約7年間の足取りを追った本です。

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日本占領史1945-1952 - 東京・ワシントン・沖縄 (中公新書)

  • 作者: 福永 文夫
  • 出版社: 中央公論新社

現在にまで物議をかもす日本国憲法などもありますが、改めてこの7年間を振り返ってみると「総じていえばラッキーだったのかな」という感想です。

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実質的に米国1国による統治となったラッキー

7年間の占領を担当したのはご存知、連合国総司令部、いわゆるGHQなんですが、その立ち位置ってのはちょっとややこしくて、間接統治の構図を本書にあった図をムダにかわいくして転記するとこんな感じ。

まず連合国による「極東委員会」ってのが最高の政策意思決定機関としてありまして、GHQはその指揮下にある、はずなんですが、間にアメリカ政府が中間指令権を持つ立場として入ってるのがポイント。しかもGHQの直属の上司筋に当たるのは国務省ではなく「統合参謀本部」、つまり米軍というのもポイントです。ちなみに「対日理事会」ってのはほとんど機能してなかったっぽい。

GHQの長であるマッカーサー総司令官は基本的に、他人からの指示や干渉を嫌う、独裁型の方だったようで、アメリカ政府の意向をもとに統治をしつつも、ときに大統領やの国務省の意向には対し「指揮系統が異なる」といって譲らなかったり、極東委員会からの批判の矢面に国務省を立たせておいて涼しい顔をしてたり、と、立場をうまく使いながら、あたかも小国の元首のような強権スタイルで統治を行いました。どうも彼自身、早く占領を終わらせて、1948年のアメリカ大統領選に立候補したかったようですね。

まあ、ドイツや朝鮮半島のように分割統治の例を見れば、米国1国による統治、しかも本国政府や他の戦勝国の意向に左右されにくい体制の下での統治は、考えられうる中でラッキーなコースだったかな、と。

GHQの統治の中には、公職追放など「やりすぎだろう」と感じるところも多々あるのですが、どこか「理想国家をつくろう」という無邪気な思想も感じるんですよね。GHQの内部組織の中で実務面で大きな役割を果たした民政局が、リベラルな社会党に肩入れしたのもわかります。

ただ、この無邪気なリベラルさは、行きすぎると共産主義と紙一重なわけで、ほどほどのところで終ったのは、それはそれでラッキーだったかな、と。

日本国憲法をめぐる国内外のごたごた

占領初期、1946年に早くもできたのが日本国憲法です。今にまで火種を残す第9条の戦争放棄を含む原案をGHQから渡された時は、吉田首相以下、言葉を失ったそうですが、実は「戦争放棄」自体は当時の日本人にはそれほど抵抗なく受け入れられたようです。

当時の日本人、特に指導者層にとっての一番の抵抗は「天皇の権限の縮小」でした。一方で、海外では天皇の戦争責任を求める声もまだ多く、天皇制に理解のあったマッカーサーとしては、それらの外部からの批判を受ける前に象徴天皇制の形で憲法成立を急いだという事情のようです。当時の日本人に草案を任せていたら象徴天皇制でまとまることはまずないでしょうね。

ただ、これらの動きはGHQの独断でやったことで、本国アメリカの国務省も寝耳に水でした。一応、手続き上は「日本政府が自前で定めた憲法です」となってるものの、草案を読めば、だれでも英文の直訳であることは明らかなわけで。国務省は草案の中身そのものが米政府の意向に沿うものということで黙認するのですが、あとでこれが問題になります。

そして、それ以上に怒ったのが連合国の最高意思決定機関である「極東委員会」でした。イギリスの外交官は「こんなプロセスでできた憲法が占領統治後も続くはずがない」と自国の政府に報告しています。

同委員会は「どういうことか経緯を説明してほしい」とアメリカ政府に詰め寄ります。委員会にはアメリカも代表を送ってるわけで、完全に板挟みとなった可哀想なアメリカ代表氏はマッカーサーに「すぐ代理をワシントンによこして説明させるように」と促すんですが、マッカーサーは…


(画像はwikipediaより)

無視します。

すげぇわ。この人。GHQの草案どおり憲法は公布され、おかげで我が国は70年もの間、自国の自衛権の定義に悩みつづけることになるわけですが、仮にこれが2年後であれば、おそらく現在の9条のような戦争放棄がアメリカの手によって盛り込まれることはなかったんじゃないかと。その辺りはもう少しあとで書きます。

ドッジデフレの恐怖

占領が3年たった1948年にもなると民主化も一段落し、アメリカは占領や日本国民への配給の費用負担がバカにならないことから、日本になんとか経済的に自立してくれるよう期待を持ち始めます。ここでアメリカが送り込んできたのが、教科書に出てくるあの「ドッジ・ライン」のドッジさんです。


(池田勇人蔵相とドッジさん、画像はwikipediaから

当時の日本は急激なインフレ状態だったんですが、ドッジさんが日本政府にまず求めたのが、財政支出をおさえた緊縮財政でした。なんだか先日のギリシャとEUの構図を見るようですね。その頃、大蔵官僚だった宮澤喜一に対して、ドッジさん、こう言ったそうです。

今日本国民に一番必要なことはひとことでいえば耐乏生活、今の日本政府や占領軍に一番必要なのは、国民に耐乏生活を押しつける勇気だ。夢は捨ててリアリズムに立ち帰れ。

宮澤さんは「これは大変な爺さんが来た」と思ったそうです。なにしろ生産設備もまだ十分に復旧してない敗戦後4年の日本のことですからねぇ。

そして、さっそく日本政府の1949年の予算案が強烈にダメ出しをくらいます。約1000億円の公共投資予算は半減され、所得税の減税は否認され、鉄道・郵便などの公共料金は5割の値上げしろとの指示。大型の財政支出を党の公約に掲げてた当時の池田勇人蔵相は完全に板挟みにあって辞任を覚悟したそうですが、驚くことにこのダメ出しされた内容が、そのまま予算として国会を通過します。よく暴動がおこらなかったものです。ただインフレこそ収まったものの、当たり前ですが、国内は深刻なデフレ不況に見舞われます。

…が、ここでもラッキー、、、といっては不謹慎なんですが、朝鮮情勢が不穏化し、1950年には南北の間で戦争が勃発します。朝鮮戦争です。

朝鮮戦争で風向きが変わる

朝鮮戦争によって日本は2つのメリットを得ます。ひとつは軍需によるドッジデフレからの経済の回復、そしてアメリカ政府が日本に、極東地域の安定要素としての役割を意識しはじめたことです。

日本としては、とにかく占領を早く終わらせたい。今が、戦勝国との講和条約の契機と意気込むんですが、一方のアメリカ、特に国防総省は、基地利用などで融通がきく占領状態の継続を希望します。

この頃、軍部は中国との全面戦争から大戦まで想定していた。そのため国内の騒乱に対してさえ、対処するに十分な軍事力を持っていない日本に関して「改憲再軍備しない限り」講和締結をすべきでないと強い反対の態度を示すようになっていた。

これ、憲法公布からたった4年後のアメリカの意見です。「いやいや、あんたらが『軍隊を放棄します』って書いた憲法、こっちに押し付けたんちゃうの?」と突っ込みたくなりますよね。

4年前、本国政府を無視したマッカーサーの強引なやり口が、ここにきて裏目に出た感じです。ちなみに、その頃、当のマッカーサーさんは、というと、、、


(画像はwikipediaより)

連合国総司令官として朝鮮半島で前線の指揮をとっておられました。 ご苦労さまです。お忙しい方ですね。

そのマッカーサーさんでさえ、朝鮮へ赴任するにあたり、米軍不在中の日本国内の治安維持のため、吉田茂首相に7万5000人規模の警察予備隊の創設を指示します。

あくまで「軍隊でも警察でもない、非常事態に備えたもの」とのことですが、「軍を持たない中立国」を志向した他ならぬマッカーサーが再軍備の道筋を開いたと言ってもいいでしょう。(その後、マッカーサーは中国本土への攻撃を示唆したかどで、トルーマン大統領に解任されます)

加えて、この前後に新聞社が行った世論調査では、日本国民も「再軍備」に対して否定的ではありませんでした。 本書内の世論調査結果の内容を転記すると、こう。

日本の再軍備に対する世論調査(%)

調査 再軍備に賛成 再軍備に反対 わからない
朝日 1950.11 53.8 27.6 18.6
読売 1950.12 43.8 38.7 17.5
毎日 1951.1 65.8 16.5 17.7
毎日 1951.3 63 19.5 17.5
読売 1951.8 50.8 31.5 17.7
朝日 1951.9 71 16 13

多少のブレはありますが、ほとんどの調査で再軍備賛成が過半数を上回っています。

この辺りの推移を読んでると、今のこの平成の世に、この憲法9条がそのまま存続していることが逆に不思議に思えてきます。

吉田茂 対 ダレス

事態の調整に奔走したのが、国務省のダレス顧問でした。


(画像はwikipediaから)

彼は早期の日本との講和に理解を示していたんですが、「そんな話は朝鮮戦争にメドが付いてからだ」とする国防総省との調整に苦労します。またアメリカ以外の自由主義陣営の中でも、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランドが日本の再軍備と、ダレスが提唱する賠償権の放棄という方針に反発していました。

当時の吉田茂首相も心中では再軍備による自衛権の復活を考えていたはずですが、これらの情勢を見、国権回復がまず第一として再軍備についての意見を明確に出さず、ダレスと腹の探り合いのような交渉を続けます。ただ、度重なるアメリカ軍方面からの要請を受け、ついに5万人規模の陸海軍による「保安隊」を開設するに至りました。今の自衛隊の前身ですね。

最終的にふたりの水面下での交渉の中で落とし所となったのが、いわゆる安保、日米安全保障条約です。

アメリカは、朝鮮戦争の収束を待たずに講和条約にて日本の国権回復と賠償義務の放棄を支持する。その代わりに、セット契約の安保条約の方で、米軍による保護の継続と、その見返りとして日本による基地の提供、沖縄の統治権をアメリカに委ねるというスキームです。

講和条約(と、安保条約)は1951年に調印され 1952年4月28日に発効しました。その日をもって日本の占領は終わりましたが、同時に終戦後うやむやのままだった沖縄の統治権を正式に失うことになりました。

朝鮮戦争が翌1953年7月に終わったことを考えれば、この時、吉田首相がちょっと翻意すれば、憲法9条の改正と正式な再軍備の可能性は十分あった、と思います。それによって国際社会への復帰はもう少し遅れたかもしれませんし、国防そっちのけで自国の経済成長に専念する、ということもなかったのかもしれません。しょせんは「歴史のイフ」のひとつに過ぎませんが。

まとめ

占領期のこの7年間をざっと俯瞰するにはボリュームとしてちょうどよいと感じました。

本書は、占領期の日本だけでなく、戦後「忘れられた島」と化した沖縄の状況の変化についてもかなり多くページを割いています。あと、著者のご専門は政党の研究なようで、占領期の日本の政党の変遷や、それぞれの党がどういう主張、行動をとったかについてもかなり詳しいです。逆に、その辺りにあまり興味のない方には冗長と感じる点があるかもしれません。

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日本占領史1945-1952 - 東京・ワシントン・沖縄 (中公新書)

  • 作者: 福永 文夫
  • 出版社: 中央公論新社

そして、これ読んだ後に、目下の安倍政権による安全保障関連法案をめぐる動きと、それに反発するデモなどの動きなどを見ると「これでよかったのかなぁ」という思いにかられます。果たして吉田茂さんは今のこの光景をどう見るんでしょうかねぇ。