(読んだ本)民主主義の作り方(宇野重規著)

やわなべです。

安保関連法案の採決までの過程だとか、二転三転する辺野古への基地移転問題だとか、近頃、民主主義による意思決定コストが馬鹿にならなくなってきてるじゃないかなー、というのを強く感じてて、民主主義関連の書籍をあたっては見てるんですが、今のところ「これ!」というものに出会えてません。

そんな中、この「民主主義の作り方(宇野重規著)」の冒頭の問題提起に「それやがな!」と思わず膝を打ったんですよ。

そして、全4章構成のうちの第3章までの展開はべらぼうに面白かったんです。3章までは。

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民主主義の作り方(宇野重規著)

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民主主義のつくり方 (筑摩選書)

  • 作者: 宇野 重規
  • 出版社: 筑摩書房

冒頭の問題提起はこう。

グローバル化とIT化が進む現在、社会の変化は早くなるばかりである。にもかかわらず、民主主義の対応は常に遅く、なかなか必要な判断ができない。熟議は必要だろうが、いつまでたっても結論が出ないようでは困る。リーダによるスピードある決断こそが大切だと人々は説く。

「今の政治で必要なのは独裁ですよ」、と言い放って物議を醸した橋下徹氏の発言が思い起こされます。彼の問題意識もまさにこの辺りにあったんでしょう。

逆に、民主主義の変りやすさを嘆く人々もいる。(略)2005年の郵政解散選挙で小泉改革を支持した民意は、2009年には民主党による政権交代を選択した。そうかと思えば2012年の総選挙と2013年の参院選は安倍自民党の圧勝に終わった。不安定で移ろいやすい「民意」を信じていいものか。

安保関連法案での安倍政権を批判するデモに対し「選挙公約に書いてあったんだから、選挙時の投票を通じて意思表示すべき」という声もありましたが、数年後の事態に備えて適切な投票行動が取れるかというとなかなか難しいですよね。

こうした民主主義の脆弱さに対し、ルソーに端を発する「一般意志」という考えがあります。それぞれが各自の主義に基づく行動をとったとしてもグロスで集約すると集団の総意として最良の選択になる、というもの。市場原理に近い考え方ですね。

話題になった東浩徳氏のこの本のように、Googleみたいなアルゴリズムで最適解を導き出すといった現代風イメージもあいまって注目されています。

ただ著者は「一般意志」などというフィクションを持ちださずに解決する方法を模索し、「プラグマティズム」という考え方を土台に解を導こうと考えます。

「プラグマティズム」、日本語にすると「実用主義」となって途端にわからなくなるんですが、「行動を通じて理念を作り出す」とのこと。「まず行動ありき」で、その行動の元となる理念や主義にこだわらないというスタンスです。

じゃあ理念や主義はどうでもいいのか、というとそうではなく、行動した結果、最良の結果を導き出せれば、それを後付けで理念とすればいいじゃないか、という考えです。実験主義というか、ビジネスで言うところのPDCAサイクルを回すことによる改善、みたいなものかな、と。

問いかけと展開は面白い、が…

我々が民主主義というとき、すでにある議会制度や選挙制度を思い浮かべますが、著者は民主主義のルーツを探るべく、同主義がゼロから育った場所としてアメリカに注目します。

トクヴィルの「アメリカのデモクラシー」を引いて、新世界を目指した移民らが、やがてその地でタウンシップという地域コミュニティで「自治」という習慣を築き、それが、やがては国家という政体を作るに至ったのが、民主主義の形成プロセスとして参考になる、と。

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アメリカのデモクラシー (第1巻上) (岩波文庫)

  • 作者: トクヴィル
  • 出版社: 岩波書店

つまり、民主主義は「こうあるべき」という理念からできあがったものではなく、名もなき市民らの自治活動という実践的経験の結果として生まれた、というのです。(もちろんその種子として祖国の経験に基づく理想があった)

そして同じような動きは、大戦直後の日本や、自然災害にあった被災地でも見られたと指摘します。

実は、この辺りを読んでて私の脳裏にずっとあったのは人気ドラマ「ウォーキング・デッド」の世界でした。

人類がゾンビウィルスの集団感染によって文明崩壊してしまった後のアメリカの話なんですが、生き残った人々が、原始的な集団として寄り合って生活するわけですね。独裁制を築く集団もあれば、女性の元市会議員による自治的コミュニティを形成する集団もいる。

元保安官の主人公も次第に10数人のグループのリーダー格となるんですが、たとえば「ここにとどまるか、リスクを冒して別の土地に移動するか」といった判断において、集団の意思を形成していくプロセスは、たしかに民主制を考えるヒントになりそうです。そんな見方してる人、誰もいないでしょうが。

…さて、そうした原始的コミュニティ的な参加型の自治が、いつしか「行政 vs 市民」みたいな対立構図みたくなってしまうのはなぜなんでしょうか。もちろん規模の問題もあるんですが、背景には近代的な「自己」の確立があると説明します。

ヨーロッパにおける宗教対立の苦い過去から、治世者らは、個人の信仰を内面の問題として互いに干渉せず、社会共通の秩序づくりや運営を職務として携わるようになりました。

そうすることで規模の大きな集団の運営ができるようになった反面、それまで社会基盤だった宗教が個人の内面に追いやられたことで、今度は各個人の関心が内面でクローズしてしまい、所属社会の政治を自分に関係のないことのようにとらえるようになります。現代に続く政治に対する無関心のルーツはここにあると説きます。

やがて、その考えは「外部としての政治」に依存しない「自立した個人」を理想化するようになり、ひいては、行政含む「他者への依存を悪」とする考えへとつながっていきます。

どうでしょう、世代間格差など、社会保障を受ける層に対する反発の種をここに見ることができるんじゃないでしょうか。

「政治はなぜ嫌われるのか――民主主義の取り戻し方」販売ページヘ

政治はなぜ嫌われるのか――民主主義の取り戻し方

  • 作者: コリン・ヘイ
  • 出版社: 岩波書店

さらには、イギリスのコリン・ヘイが示すように、政治や政治家らを「己の利益を追求する害悪としての存在」と考えるような政治不信、政治家不信にも発展します。

習慣のソーシャル化??

第3章では、再び民主主義のルーツに戻って、偶然的な行動から秩序を探り出そうとする運動の繰り返しを「習慣」という概念で解説します。

そして、それは個人だけでなく「社会的な習慣」というものありうるものだ、「習慣のソーシャル化」だ、見たいな話になってきて、だんだんついていけなくなってきました…

たとえば上で書いた、「個人の自立の理想化」、「依存への恐れ」、「政治不信」、などの考え方も、運動の帰結としての「社会的習慣」の一形態(どちらかというと bad habit)、という理解でいいんでしょうか。

そして、最終章である第4章では、冒頭から社会起業家によるNPO活動や、地方自治コミュニティの例が出てくるのですが、これまでのプラグマティズム理論の実際例としては、いささか突飛で、論理的つながりが弱い印象を感じました。

それらNPOや地域コミュニティ活動が、ネットを通じて連携することでこれまでになかった発展を見せている、ってのはわかるんですが、その文脈でいうなら何かと話題のシールズ(SHEILDS)なんかの方が適例なんじゃないでしょうか。

それらコミュニティ活動が、民主主義の原点を振りかえらせ、新しい社会的習慣を創るための運動のひとつになるだろう、というのは、まあわかります。

が、現実問題、そこから何千万、何億人という集団の統治に発展させる際には、自治体、選挙、立法、司法といった制度に全く触れないわけにはいかないでしょう。

冒頭で引用した現在の民主主義に対する問題提起に対し、「こうした社会活動家らの運動のソーシャル的な拡がりと、その自己解決性に期待しましょう」という結論なんだとしたら、ちょいと夢想的すぎやしませんかねぇ。

というわけで、続きはウォーキング・デッド見ながら考えることにします。

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民主主義のつくり方 (筑摩選書)

  • 作者: 宇野 重規
  • 出版社: 筑摩書房