筥崎宮とか名島神社とか香椎宮とか、福岡市東部の神社巡り記

やわなべです。

先日の福岡滞在中にどっか史跡巡りでもしようかなと思い立ちました。福岡でメジャーな史跡スポットといえば福岡城址と太宰府周辺ですが、いずれも訪問済みだったので、今回の福岡滞在時には市東部の神社を訪問してみることにしました。

短期の旅行では、あまり博多から東方面に行くことはないと思うんですが、奈良や京都で神社めぐりをするのとはまた違った、この土地ならではの由緒があって、面白かったですねぇ。

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筥崎宮

まずは博多からもほど近い筥崎宮(はこざきぐう)から。地下鉄の箱崎宮前駅が最寄りです。ご祭神は、応神天皇、神功皇后、玉依姫命(たまよりひめのみこと)。主祭神は応神天皇ということで、八幡神をお祭りする神社で、日本三大八幡のひとつに数えられる由緒正しい社であります。

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ここは鳥居がとても印象的な神社です。境内にある一の鳥居から北西へ伸びる一本道の参道を本殿と逆方向に歩いて行くと、二の鳥居、三の鳥居、国道3号線をまたいでさらに歩いたその先は…なんと砂浜です

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潮井浜(しおいのはま)と呼ばれる浜で、ここの砂を持ち帰り、外出時に体にふりかけることで厄払いをする習慣があるそうです。古来からの禊(みそぎ)の作法をなぞらえているんだとか。

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境内も見所満載です。本殿・拝殿は大内義隆、拝殿前にそびえる楼門は小早川隆景、一の鳥居は黒田長政の建立と、代々この地を治めた戦国武将達の厚い庇護を受けてきたことがわかります。

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見逃しかけましたが、一の鳥居横の標石も、裏を見ると…

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日露戦争の折、日本海海戦の勝利を導いた東郷平八郎元帥の謹書でした。なんという日本史豪華キャスト。

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拝殿前の楼門には「敵国降伏」という、穏やかでない額がかかっています。これは日本海海戦のことか、秀吉の朝鮮出兵のことかと思ったら、由来はさらに古く、鎌倉時代の元寇襲来の折、当時の亀山上皇が、元軍の撃退を祈念して揮毫された御宸筆を元にした額なんだそうな。

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境内には明治時代につくられた、その亀山上皇の高さ6mもある巨大な木像が収められています。

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これだけ日本史上の戦いにゆかりがあり、ご祭神が武神である八幡神とあっては、そりゃあ地元のホークスやアビスパがこぞって必勝祈願に来るわけですよねぇ。

名島神社(名島城址)

次はちょっとマイナーなところへ。筥崎宮から国道3号線を北上し、多々良川を渡ったところが名島(なじま)というところです。

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もともとこのあたりは3方を海に囲まれた地形でした。戦国時代、立花家の小さな出城があったのを、九州征伐を終えた秀吉が大改築して名島城として再築、小早川隆景を城主に据えました。後に城主は小早川秀秋を経て、黒田家へと移るのですが、手狭な名島を嫌って西の福崎の地に新たに城を築くことにします。これが福岡城です。

福岡築城の際、名島の石垣をごっそり持って行ったそうで、かつての城の面影はほとんどありませんが、城門は、黒田家の菩提寺である博多区の崇福寺に移築されていて、今も見ることができます。

あ、そうそう。話バラバラですが、城跡の西側の浜辺には「帆柱石」なるものがあるんですよ。

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柵の間の岩の下に茶色い円柱型の石がいくつか横たわってるのがわかりますかねぇ。これ、3000万年以上前の木の幹の化石なんだそうですが、「神宮皇后が三韓出兵した時の船の帆柱だ」という言い伝えがあるそうです。この地域の伝承には、神功皇后欠かせませんね。

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その裏にある、いい感じに潮風があたって古びた鳥居をくぐって丘を上がると、名島神社の小さな本殿が見えてきます。

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更に登るとそこが旧名島城の本丸跡、名島城址公園です。

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小高い丘から名島の市街を見下ろしたあと、再び名島神社へと戻り、さらに南の方に下ると、宗栄寺というお寺があります。

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由緒書きを見ると、もともとここは、さっき見た名島神社の位置にあった「弁財天社」の神宮寺の末寺にすぎなかったようなんですが、明治維新の神仏分離で神宮寺が廃止、行き場所がなくなったご本尊、弁天様のお像が各所をさまよったのち、地元民の嘆願によって、ここに移され、今に至るんだとか。名島神社より、弁天様の方が地元の方の信仰が篤そうな印象を受けました。

香椎宮

次に向かったのが香椎宮(かしいぐう)。名島からだと都市高速名島IC近くの名島運動公園前から香椎宮前に直通の西鉄バスの路線があります。ビバ・西鉄バス。

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楼門も立派ですし、本殿は、入母屋造りと切妻造りを複合した国内唯一の「香椎造り」という建築様式。

これら建築物も見どころなんですが、実はここ、もとは神社ではなく、「廟(びょう)」、つまり、亡くなった貴人を祀る宗教的施設だったんですよ。どなたのお廟かというと、神功皇后の夫で、この地で亡くなられた仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)です。

仲哀天皇、実在すら不確かで、いろいろ謎の多い方です。そもそもこの地には熊襲(くまそ)討伐のために遠征されてたんですが、イタコとなった妻、神功皇后を通じて「新羅を攻めなさい」というご神託に受けたのに、それを拒否。そのかどで、たたりにあって死んだ、とあります。のちに神功皇后がそのご神託どおりに三韓征伐に成功したことから、メンバー間の方向性の違いからの暗殺ではないか、と見る説もあるようです。

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そんな仲哀天皇の廟としての由来は、本殿横の脇道を少し歩いたところにある「旧宮(ふるみや)」というところで知ることができます。案内板の先にあるのは「沙庭(さにわ)」と呼ばれる斎場、神域として柵で囲割れた中に1本の木。

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更にその奥へ進むと旧帝国時代の名残かと思うようなこんな標石が。

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仲哀天皇大本営御旧蹟」、とあります。横にあった格調高い名文の由緒書きによると、ここが天皇出征中の皇居であり、かつ、ご崩御の地である「訶志比之宮(かしいのみや)址」とのこと。

さっきの「沙庭」に戻ります。天皇の死後、神功皇后や武内宿禰らは、協議して一定期間天皇の死を秘めることを決めます。そして、天皇の亡骸を納めた御棺を、先の写真の椎の木にたてかけ、あたかも天皇がまだご存命であるかのように御前会議を開きました。由緒書き曰く、

この時、御棺より薫香漂ひたるにより、香椎の名起るとの地名伝説もあり

それって屍臭……いえ、なんでもありません。ここ「香椎」の地名の由来はいろいろあるようですね。

結局、天皇が反対した三韓征伐案が採択され、成功してしまうんですが、それはともかく、こういった経緯で、この地は特別な聖地として、平安期以降、天皇の勅使が、定期的に訪れて祭儀を執り行う習慣ができました。現在でも10年おきに行われていて、直近では去年(平成27年)に行われたそうです。

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えー、この記事のメインの予定は、次の日に訪れた宗像大社だったんですが、メインを書く前に力尽きてしまったので、香椎宮の池で自重に負けてしまいそうになってるダメな巨木の写真でお茶を濁して終わります。また来週、ごきげんよう。