「真田丸」大坂城周辺の関連スポットめぐり

やわなべです。

NHKの大河ドラマ「真田丸」もいよいよ大坂編に突入、ということで、大阪城近辺の関連スポットを散歩してきました。

、、、ってのは口実で、新しく買ったカメラの試し撮りがしたかっただけなんですけどね。

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大坂城

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まず、何はともあれ大坂城「真田丸」というのは秀吉が築いた大坂城の惣構(そうがまえ)という外郭の南東部の丘陵地にあった(らしい)出丸の名称で、大坂の冬の陣に備え、真田信繁が防御のために増築したと言われています。

昭和に再建されたコンクリート天守閣はむろんのこと、周りを囲む壮大な石垣群も、すべて大坂の陣の後、徳川時代以降のの再建です。真田信繁が見たであろう豊臣時代の遺構はどこにもありません。

最近復刊された岩波新書の「大坂城」によると、徳川期に再築された本丸部分は豊臣時代のそれに盛り土をして土台を高くしたようなんですよね。

ご存知の通り、大坂城の堀は冬の陣の講和条件で埋められたんですが、再築の際、その外堀の埋め土を再利用して本丸の土台を高くしたそうです。同じように石垣の石も再利用すればいいのに、と思いがちですが、落ちた城の石を使うのは縁起が悪いということで、ゼロベースで石集めを行ったそうな。

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、、、といったうんちくは現地の案内板にぜんぶ書いてありました。豊臣時代の大坂城、特に本丸部分は石垣もろともに現在も土の下に眠っています。この豊臣時代の石垣を一部掘り起こして、展示しようというプロジェクトがクラウドファンディングなどで資金を募ってました。

地下に眠る秀吉の大坂城石垣|太閤なにわの夢募金

以前記事に書いた大坂城の櫓の特別公開の時に、徳川時代の遺構のひとつ「金蔵」も公開されてましたが、この裏手の部分が、公開予定の場所のようです。

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位置はこの金蔵の裏、復興天守の南広場の東側、旧市立博物館の北の部分です。すきまから少しのぞいても、上の記事を書いた時から進捗はあまりなさそうでした。数年後には整備されて石垣が見れるようになっているのかもしれません。

玉造稲荷神社

大坂城の南東の玉造口から出て、そのまま大阪城公園を噴水広場の方へ進むとJR環状線の森ノ宮駅に出ます。

この辺りは豊臣時代の大坂城の三の丸に当たる部分で、ここから南の旧惣構の跡地にかけては、大阪には珍しく勾配の多い地域です。もともとの上町台地の地形なのか、はたまた大坂城の遺構の一部なのか。たぶん大河が盛り上がってきた頃にタモリさんが来て「ブラタモリ」で説明してくれると思います。

さて、森ノ宮から南へ延びる玉造筋から2、3本西の筋を南に300mほど歩いたところにあるのが玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)です。

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直接、真田信繁公との由縁はないんですが、ここは豊臣秀頼公ゆかりの神社です。

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由緒書きによると、「天正4年の兵乱でことごとく焼失したところを、秀頼公によって慶長8年に社殿・高殿が再建された」そうな。「天正4年の兵乱」ってのは信長と石山本願寺との間の石山合戦でしょうね。

その後、大坂の陣で再び戦地となって被害を受け、その時は江戸幕府の援助で再建しているのですが、もっぱら秀頼公推しなのは、太閤びいきってやつでしょう。江戸時代の大坂は幕府直轄の天領でしたから、おおっぴらに秀頼公を前面に出すようになったのは、おそらく明治以降でしょうね。

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地中に埋まった一見不吉な鳥居は、慶長時代のもの。大きな地盤沈下があったわけではなく、近代に入ってからの地震による倒壊の危険のため、地中に埋めたそうです。

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淀君が秀頼公をご出産された時の胞衣(卵膜・胎盤)をお祀りしたという、胞衣塚大明神(よなづかだいみょうじん)。またえらいものを祀っておられますねぇ。安産祈願にはいいかもしれませんが、産まれたお子さんの将来がちょっと心配です。

三光神社

玉造稲荷への参道を南へ坂を下って行くと長堀通。さらに100mほど南に進むと、また高台にぶつかります。ここにあるのが三光神社です。

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ここを含む丘陵地が真田丸があったと比定される場所で、もう少し南へ行ったところの住所はズバリ「真田山」。ずいぶん歩いてきましたが冬の陣までは、ここも大坂城の城中だったわけですよねぇ。もちろん高台に登っても大阪城の天守閣なんて見えやしません。

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この三光神社、境内にある「真田の抜け穴跡」と言われるトンネルが有名で、横には真田信繁公の銅像も立ってます。ここは真田丸の出丸の東端にあたる部分だったそうで、この抜け穴が本物なら(徳川方が掘ったトンネルという説もあり)、ここから西の真田丸中心部から東への抜け道だったんでしょう。普段は鉄格子がかかってますが、秋の「真田祭り」の際には開放されるんだそうです。そのお祭りが始まったのもたぶん明治以降なんじゃないでしょうか。

真田山陸軍墓地

ここから、さらに高台を西に登ったところが宰相山公園(ただの広場)。さらにその西に広がるのが、「旧陸軍真田山墓地」です。

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真田丸と直接関係はありませんが、戊辰戦争から太平洋戦争に至る英霊達の墓碑が広い敷地に整然と並ぶ光景は圧巻です。

この墓地をまっすぐ西へ横切って、住宅地へ抜ける狭い小道を抜けると、南北に走る坂にぶつかります。「心眼寺坂」という坂です。

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真正面は明星高校ですが、実はこの高校のグラウンドがちょうど真田丸の中心部だったのでは、と推定されています。傍らには、ドラマの放送にあわせて用意したであろう、新しげな案内板も。

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心眼寺

この案内板のちょうど向かいにあるのが心眼寺(しんがんじ)というお寺です。

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ここは家康の死後、元和8年に白牟(はくむ)という和尚さんが、真田信繁父子の冥福を祈るために建立したのがきっかけなんだそうな。太平洋戦争の空襲にあって、創建時を偲ぶ建物はありませんが、門にはしっかり真田家家紋の六文銭が(創建時からこの紋を使ってるんだそうです)。

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真田信繁公の墓碑もありましたが、妙に新しいんですが、これもドラマにあわせて用意したんでしょうか。この日は土曜日でしたが「史跡歩きツアー」的な団体さんを複数見かけました。

茶臼山

次に向かう場所はちょっと離れてるんで、一旦、真田山を東に下りてJR玉造駅まで戻り、大阪環状線で天王寺駅まで移動します。

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ちなみに玉造の駅前商店街もいつも以上に真田推しでした。

JR天王寺駅の真西には天王寺公園が広がってます。ここはかつてホームレス対策で公園全体が柵で囲われてまして、入場料を払わないと中に入れなかったんですが、今は開放されて今風な商業施設もできています。

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園内にある大阪市立美術館を南に通天閣を眺めつつ通り過ぎ、公園の北東を目指すと見えてくるのがこんな光景。

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この、こんもりと木々に覆われた丘が、茶臼山(ちゃうすやま)です。

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ここ茶臼山は、大坂冬の陣では徳川家康が、夏の陣では真田信繁が陣を敷いていた因縁の場所です。

写真でわかるようにとても小ぶりな丘で、それもそのはず、ここ、もともと古墳なんですね。とても多くの兵を駐屯させるような場所じゃないんで、おそらく丘の上には大将の本陣だけがあったんじゃないかと。

茶臼山を降りて、西にあるのが一心寺。ここには東軍の本多忠朝公のお墓があります。

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大坂冬の陣で東軍の将として参戦するも、酒に酔っていたために不覚をとり、その隙を敵につかれて敗退。それを家康に咎めらて、汚名返上と挑んだ夏の陣では奮戦の末に戦死。「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれる方です。お酒で失敗された経験のある方は、偉大な先輩の墓所をお参りしてはいかがでしょうか。

安居神社

その一心寺の北、国道25号線をまたいだところにあるのが安居神社。ここが、真田信繁公、最期の地と伝えられています。

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冬の陣では真田丸に陣取って、南からの東軍と対峙していた真田軍ですが、外堀が埋められた夏の陣では、必死の覚悟で打って出る積極策をとります。激戦地となったのはここからさらに南東の現在の松原市や藤井寺市付近でしたが、敗色濃厚となってこの辺りまで押し返されます。

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真田公、ここ安居神社の場所で、しばし小休止をとっていたところを、松平忠直の軍勢に討たれ、49年の波乱の生涯を閉じました。小さな神社ですが、この日も参拝者が絶え間なく訪れてました。

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その銅像前でのんきに昼寝してたネコ。あんたなぁ、今年はこれから人ようさん来はるから愛想よーせなあかんで。

この日訪れた場所を地図に記したのがこちらです。ご参考まで。


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大坂城 (岩波新書 青版 739)

  • 作者: 岡本 良一
  • 出版社: 岩波書店